初代豊島龍山

 豊島太郎吉は自分自身で駒を作ることはありませんでした。将棋指しとして峠を越えたころ、本来の仕事であった材木商に失敗し、二百五十円で番頭に店を売る羽目になります。
 その為、東京・上野田原町で碁盤店を開き、四十二歳のときに生まれた数次郎に駒を作らせたのでした。隣の稲荷町は、仏壇具屋街で、当時はたくさんの戒名書き・戒名彫の職人が居り、その人たちから数次郎は、駒の彫り方や、漆の盛り上げ方を習っていったようです。
 太郎吉は、牛谷露滴の集めた資料や、高浜禎等の協力を得て字母を作り、数次郎は駒としてそれを作品に仕上げてゆきました。二人は、親子というより師匠と弟子のような関係でいたようです。普段の会話でも、数次郎は太郎吉に敬語で接していたといわれています。
 もともと材木商であった太郎吉は、それまでは柾目一辺倒であった駒生地を、虎斑や根杢等の模様の入った見た目に美しい駒生地を加え、字母の種類も整え「高級美術駒」として販売し、成功します。