牛谷露滴について

 豊島龍山について説明する前に牛谷露滴について説明しましょう。
 牛谷家は、幕末の頃よりの深川の材木商の大店で、牛谷春甫等多くの将棋指しが一族から出ました。露滴はその牛谷家の当主でした。八代名人伊藤宗印の十一世名人襲位記念の免状で露滴は六段を受けています。当時、六段の免許状を受けることは珍しく、将棋界に相当の貢献したことによるものであろうと思われます。彼の名前は明治十一年の伊藤宗印の番付表に筆頭行事として載っております。
 この、露滴が駒の製作を試みますが、牛谷一族は没落し、その思いは同じ材木商であった豊島太郎吉に受け継がれます。
 千葉県の関宿町にある関根金次郎記念館には、関根が愛用した「牛谷造り」(牛谷露滴政策の駒)の駒があります。駒の周囲を駒箱のようにギンラン面で面取りの装飾がしてあります。牛谷の駒で現存するものはこれひとつですし、この駒以外に、このような面取りをした駒は見たことがありません。
 牛谷露滴や豊島龍山の動きは、プロとして使う駒に品格を持たせることにより、将棋同盟社や、将棋そのものの世間的な評価を向上させることが目的であったような気がします。豊島が、それまで使わなかった虎斑や根杢などのいろいろな木地を使用し、いろいろな書体を創作したのも、その流れの一環でしょう。豊島字母紙にある、「無剣書」「三田玉枝書」などの書体はそれまでの駒の書体から は考えられないユニークさを持っています。